文学で上質なステーキを堪能する
ヘンリー・ジェイムズという作家を知ったのは、17歳の時だった。当時の読書記録ノートを読み返してそれがわかった。ということは。それからちょうど20年経っている、というわけで、わたしもずいぶん大人になったものだとつくづく思う。
ヘンリー・ジェイムズは、調べてみると夏目漱石より24年早く生まれているが、同じ時代を生きた作家ということになる。間違いなく、ジェイムズは漱石と同じ文豪である。文豪大先生と呼ぶにふさわしいほどの。
はじめてヘンリージェイムズを手に取ったときは、世界の文豪という作家の小説を読んでみたい、というあこがれがあったからなのだが、そこからわたしは、ヘンリー・ジェイムズの作品が好きになり、ちょうど高校3年生の時に、ジェイムズの作品「鳩の翼」が映画化され、祖母を連れて渋谷まで観に行った。
映画のストーリーはあまり覚えていないが、後半20分で男女が裸で絡み合うシーンがあり、上映中ほぼ寝ていた祖母がちょうど最後のその部分で目を覚まし、衝撃的なシーンを見てしまい、だいぶ気まずい思いをしたのだった・・・その結果、祖母は「鳩の翼」というタイトルをいつの間にか『鶴の舞』と言っていたというのは、何年経っても笑い話である。
さて、37歳になったわたしは『ワシントンスクエア』という作品に出合った。
父親を尊敬し絶対服従している主人公キャサリンは魅力的な青年と出逢い婚約をするが、父親に反対され、二人はどうなるか、という物語で、登場人物は数人、舞台設定も極めてシンプル、娘、父親、婚約者、叔母、この4人の心理描写により、ぐいぐい引きこまれていく。特に、キャサリンへの従順さが歯がゆかたりもしつつ、いつの間に彼女が変化していく、そして後半も後半で、歳をとったキャサリンは今、というところが何とも哀愁を漂わせていて、読み終えた後、わたしがまず感じたことは“上質なステーキを食べた後の満腹感“
ジェイムズが描く女性像。これは、当時、女性は控えめでなくてはならないという時代の中で、アメリカでは徐々に女性たちは自己主張の芽を出していて、小説によって描かれる活発な女性像は当時としては新しく挑戦的だったのではないかと思う。
17歳だったわたしも、そこにまさに憧れを感じたのだ。社交的で活発。自己主張をちゃんとしたい、そう日記に綴っているのだ。
そして、今。わたしは自己主張する女になった。35過ぎてからかな~、自分をこんなにオープンにできるようになったのは。自己主張したことで、今の仕事に就くことができ、どんどん新しい可能性が広がっている。友人に言わせれば、私が自己主張できるようになったのは「おばちゃんになったから」じゃないかというが、確実にその通りなのよ。
ジェイムズ作品は、読者を裏切らない。読み応えあり、上質なステーキのよう。また味わいたい。
カニグスバーグ作品『ティーパーティの謎』からアメリカへの空想の旅に出る
またしても原題と邦題が全く異なるカニグスバーグ作品。
原題は”The View From Saturday”、邦題は『ティーパーティの謎』。
岩波少年文庫のあとがきには、実娘であるローリー・カニグスバーグ氏が母がどうやって物語を思いつくのか、という質問に答えましょうと語る。
このあとがき自体が素晴らしいのだが、この作品は「モーツァルトの交響曲四十番ト短調の第一楽章」を聴いて、“この曲をモデルにして本を書いてみようと思った”というのだ。“この楽章と同じように短い導入部分や主題の繰り返しがある本を書いてみたいわ”というのだからカニグスバーグの天才ぶりに感嘆してしまう。
思春期の子供たち。アメリカという国ではバックグラウンドも家庭環境も異なる子ども達が混在して暮らしている。あとがきにもあるように、“彼らは違いも認めてもらいたいし、友達にも受け入れてもらいたい”。そんな子ども達の内面を時に真面目に時にコメディに描いている彼女の作品は読むたびに、アメリカの日常生活に入り込んだかのような現実逃避ができてわたしはとても好きだ。
その“違いも認めてもらいたいし、自分自身を友達にも受け入れてもらいたい”そういう思いというのは、大人になっても誰にもある。それを見事に表現していてアメリカという国で自分自身のアイデンティティをもがきながらも受け入れ、他人との関わりを通じて友達と心が通ったときの嬉しさ、そういうものがとても愛おしく描かれているのだ。
その友達というのは、たくさんいる必要はない。
ちゃんと、わたしのこと、あなたのことを受け入れてくれる心が通えるヒトというのは存在するのだ。
毎週土曜日(view from Saturday)のインド出身の転校生の男の子ジュリアンが友達3人を招待して始まったティーパーティ。“博学競技大会”への出場。細かい設定までもがワクワクするお話なのだが、忘れちゃいけないのが、この本でわたしは声を出して笑ってしまった以下のシーン。
主人公のひとりナディアという女の子が、ふてくさったときに、テレビでトーク番組を三つ観た。“一つはお母さんが恋人といちゃついて困っているという十代の若者たち。あわれ。もう一つは、ポニーテールを切りたくないと言ったために失業してしまった男性たちについての番組。あわれ。三番めのは、変な場所にピアスを入れている人たちについて。おへそに釘を刺している女の子もいれば、舌にダイヤモンドの鋲をさしている子もいた。一人はおへそを見せ、もう一人は舌をつきだした。不気味。・・・”
Oh...I can't stop Loving her Books!!!
すばらしきカニグスバーグ作品!
日本語訳と英語原書のタイトルの違いや、その作品の奥深さに惹かれ、文学研究にもってこいであり、掘り下げたくなる珠玉の作品ばかり。読み終えた後にこんな素晴らしい作家がアメリカに存在していたということ、その作品に出会えた奇跡に幸せを感じずにはいられない、E.Lカニグスバーグ。
80歳超えてから書かれたという晩年の作品である『レディムーンの記憶』を図書館で見つけた。たまたま見つける、というのがまた運命的な本との出会いを感じずにはいられない
ちなみに原題は『The Mysterious Edge of the Heroic World 』である。邦訳の題名との違いが鮮明だが、個人的には、邦題のほうがしっくりくる。翻訳した金原瑞人氏がすばらしい。氏のあとがきを先に読むと、カニグスバーグの作品を何度も何冊も読み、翻訳もしてきた彼が、これほど「すごい」と感嘆した作品は初めてだという。
どれどれ・・・と読むと、冒頭も相変わらずアメリカンでかっこいいし、登場人物のキャラクターもとても魅力的。
それに加え・・・読み進めていくと、第二次世界大戦のユダヤ人迫害の歴史背景を絡ませ、それが現代の美術作品にリンクする。それだけでもすごい!とまさに感嘆してしまうが、私が感動するのは、その歴史的背景とともに、年老いてきた重要人物であるゼンダ―婦人の哀愁に満ちた人生とちょっとしたシーンである。
ゼンダ―婦人が現代社会になじめないところに、ガソリンスタンドがセルフサービスになってしまったことによって、この世は終わったの、と漏らすゼンダ―婦人のこのシーン。これまでの上流階級としてのプライドとアイデンティティが奪われたことをほのかに表現するカニグスバーグの文才が光る。
本棚の上に運命的に主人公の少年アメディオが見つけ出すヌード画の『レディムーン』の謎解きから、なぜいままでレディムーンを隠し、それでいてでも見つけてほしいと暗に示したのか、と問われて「私がどういう人生を送ってきたかわかる?」と言うかのような語りになるほど・・・とその瞬間に、わたしの中で、ゼンダ―婦人が実在する人物になったのだ。
最近、わたしも北欧に旧友と再会する旅に出て、気づいたことがある。
それは世界の歴史と情勢は現代の私達の日常生活に密接につながっている、ということだ。この作品では、第二次世界大戦に生きた先人たちとその子孫である現代に生きるわたしたちが『レディムーン』という芸術作品を通じてつながっていることが表現されている。
だから、美術館でクロード・モネやゴッホの作品を見てたときにも、本当に最近なのだが、気づいたのだ。彼らが生きていた時代があって、その時代の作品を今、私が目の前で見ている、というのも運命的な時間なのだ。
私もこの時間を生きている、ということなのだ。
旅に持っていく本
15年ぶりに、ヨーロッパへ一人旅に出た。
11時間のフライト、空港での待ち時間、列車の旅中、ホテルでの一人の夜。
時間がたっぷりあると考えて、本を3冊持って行った。
『ドリトル先生のアフリカいき』パウロ・コエーリョ作『アルケミスト』そして、英語版ムーミン谷の冬である『Moominland Midwinter』。
しかし、私が読み切れたのは、『ドリトル先生のアフリカいき』だけだった。
たっぷり時間はあったのに・・・
そして、当たり前のことを言うと、せっかく旅にきたのなら、列車の中で本を読むより車窓からの眺めを楽しみながら思いにひたるほうがその時間はときめく。
そして、旅の間は、読書にはそんなに集中できない。
という結論。
そんな話をすると、よくひとり旅に出るという友人(既婚男性)が、「わたしも旅に出る時は、重い本と軽い本の1冊ずつを持っていく」という。
まぁ、重い本は飛行機でまったく眠れないときに、ひたすら読む。それが読めなさそうなら、軽い本を気晴らしに読む、という。
やっぱりそうなんだ、旅人も。旅の間は軽い本の方が読めるだろうなって。
でもわたしはどこかヨーロッパに行くから、ちょっとカッコつけたかったのだ。だから外国文学を3冊選び、ドリトル先生のような冒険の話やら、友人が人生観が変わったというバイブル的な本だと絶賛する『アルケミスト』をわたしも特別な旅の最中に読みたかったし、北欧の地で本場のムーミンのおはなしを英語で読んでみたかった。ムーミンの本は日本で何度も頭に入らず挫折してきた一冊だ。
ここで読みやすい林真理子の小説なんかを持って行きたくなかった。日本のリアルな日常生活を彼女の小説は描いているわけなので、そんな本をわざわざ海外で読むなんて嫌だったのだ。
読書は、日常生活の中でするのが一番良いのかもしれない。日々の些事に追われながらも、読書をする時間はわたしに常に、新たな発見と教養と人生観を与えてくれるから。
”人間は脳みその10%しか使ってないって本当?”からの親子の会話
昨晩のこと。夕飯のときに5歳の娘が、
「ねぇ、ママ。ティーンタイタンズのロビンが(カートゥンネットワークのアニメ)人間は脳みその10%しか使ってないって言ってたのって本当かな?」
と聞いてきた。
わたし「そうだとしたら、もったいないよね~。それで、もし、“OK Google~”なんていってなんでも頼んでたら、ますます人間は脳みそ使わなくなるね。まったく。それぐらい自分でやればいいじゃん、ってわたしは思うけどね」
すると8歳の息子。
「じゃあ、“OK Google,人間が脳みそを10%しか使っていないか調べて”って聞いてみたらどうかな」
と言う。そして、
「“アレクサ、ハッピーバースデー歌って”っていうのもあったよ!あれさぁ、ひどくない?お祝いなのにコンピューターに歌わせるんだよ。自分達で歌ってあげないと意味ないじゃん」
すると、娘。
「何のために口があるの?って感じだよね」
むすこ「“OK Google”っていうためだったりして」
なんというジョークセンス!我が子ながら、冴えてる・・・笑
というか、アメリカのアニメやドラマの見過ぎによるものかという指摘は否定できないが。
“OK,Google、電気消して”とか”アレクサ、キッチンペーパー注文して“っていうのが日常だなんて・・・
この現象から連想するのは、ディズニー・ピクサー映画『ウォーリー』に出てくる未来の人間達。なんでもロボットにやってもらうようになって、太ってぐうたらになり、肝心なときに動けないという何とも残念な姿である。あ、今思い出したけど、2001年公開されたスピルバーグ監督の映画『AI』も。未来の社会に対する先人たちのメッセージ。子役だったハーレイ・ジョエル・オスメントの演技は鳥肌がたつほど素晴らしかった。もう一回観てみたくなってきたなぁ。
『エルマーのぼうけん』と人形劇
8月上旬、うちの子ども達と親子そろって大ファンの人形劇のプーク劇団による『エルマーのぼうけん』が上演された。
新宿の紀伊国屋ホールまで夏休み中のイベントのひとつにと繰り出した。
なんと、プーク劇団さんは、この上演を機に、原作者のルース・スタイルス・ガーネットさんを日本にご招待し、日本のエルマーのぼうけんシリーズのファンと会えるという特別な企画をしていたのには驚いた。だって、ガーネットさんはとてもご高齢だし・・・
残念ながら、わたしはそのガーネットさんの来日イベントのほうには行くことができなかったけれど、前日の人形劇はとても楽しめた。
この人形劇を観るにあたって、わたしは『エルマーのぼうけん」シリーズ3冊を完読し、予習するというほどの意気込みというか・・・
8歳の息子もすでに3冊読んでいたので、これはママだって読んでおきたいわという意地みたいなものと、小学生のころからずっとこの本はいつかちゃんとシリーズ3冊読み切っておきたいと思いつつ、後回しにしてきたのが今ということ。
こんな名作をちゃん読んでいなかったなんて、児童文学者として恥ずかしい・・・笑!
3冊読んでみて、やっぱり、これは大ぼうけんな物語。とくに子供にとっては未知の世界への旅が楽しめる。
おとなだって、わくわくする!そして、一冊めのエルマーのぼうけんで誰しもの印象にのこるのは、、もちろん、エルマーが持って行ったものリストの、ももいろの棒つきキャンディ二ダースと、チューイングガム、わたし的にはやっぱり”ピーナッツバターサンドイッチ”。これを持っていくところが地味にいいのよ、だって、アメリカ人の大好きなお弁当といえば、ピーナツバターサンド、だもんね~!
そして、2冊めの『エルマーとりゅう』のお話は、まぁ、カナリアが出てくるのが特徴のお話で、印象と言えばまぁまぁ。
もっともスリリングなのは3冊めの『エルマーと16ぴきのりゅう』。冒険物語として一番読み応えがあるのは、これかな。16ぴきものりゅうのカラフルさがワクワクする。
そして、3冊予習して臨んだ人形劇はどんなお話しになっているか・・・これ原作を読んでくと、あれ!?猫が一緒に旅に出る!?原作では、年寄ねこだからお留守番のはずじゃ・・・という展開も、ガーネットさんに承諾を得てのことなのでしょう。ちょこちょこと原作と違うところがあるけれそれはそれで、舞台表現、子どもが観てよりわくわくするように、いろんな観点からの脚色なのだと思われて、子ども達はみんな釘付けで観ているのでした。
人形劇でここまでの迫力を出して、なおかつ楽しい!という舞台に仕上げるプーク劇団はやっぱり日本が誇る最高の人形劇団だと思う。
子ども達が「またプーク人形劇見に行きたい!」と言う気持ちがよくわかる。子どもの時にこんな素敵な人形劇の世界を経験することは、子どもらしい幸せな時間を過ごしているということ。
わたしもその幸せな時間を共有できてとても嬉しい!
猫にまつわるエトセトラ
前回のブログでもお話したとおり、最近、改めてわたしは洋物のお話を読んでいると心が落ち着く、ということに気づいた。
この『ピーターサンドさんのねこ』という児童書も、たまたま図書館で出会った一冊。アメリカ、ニューヨーク州の小さな島”ホタル島”に住む、ピーターサンドさんとそのネコたちのお話。ホタル島は夏のバカンスの間だけ人々が、別荘に過ごしに来る、という設定もひと夏の思い出に思いを馳せられるところがなんともステキ。
「暖炉にはやっぱり猫がいないとね」と言って、別荘に夏を過ごしに来た人々は、一年中ホタル島にすんでいる漁師のピーターサンドさんのネコたちを借りるのだが、夏が終わるとネコを置いてきぼりにしてと言うか、荷造りでネコのことは忘れてそそくさと帰ってしまう、そんなときに、ピーターサンドさんにある出来事が起きて・・・その後、ネコを大切にしたいと思わせるお話に胸があったかくなる。
ピーターサンドさんという名前も好きだし、クロメという名前のネコ、白いからだに右の目の上にだけ黒い毛が生えている、という設定も好きだし、ホタル島の街並みも想像するとワクワクするから好き。かわいらしい挿絵から想像することができるのであります。
ネコ好きにはたまらないお話だし、わたしの家の周りにも、よくネコ達が歩いていて、夜なんかはネコの会話する声が聞こえていて、「あ、ネコちゃんだ~」とほほえましく思っていたのだが・・・
最近、うちの玄関先でノラ猫に糞をされていたことが発覚。一気に、ネコ可愛い~、という呑気なことは言ってられなくなった。ネコの糞尿は臭いのよ!よりによって人の玄関先にウ〇チをするなんてけしからん!とネコが憎たらしくも思えてきたところであった。すると、近所の方も、同じ被害に最近遭っていて、「いやですよね~」と井戸端会議していたら、その方とお姑さんが「猫って気持ち悪いわよね、細い隙間とかをぐね~って通り抜けたりして」と言っていて、よく聞いてみるともともと「私達ネコが嫌いなのよ。ネコの顔もこわいし」と言って、その方の2歳のお子さんもちょうど通りかかったネコを見て「やだ~こわい~」と泣き出してた・・・
そっか…ネコが嫌いな人もいるんだぁ。
ということに改めて気づいたのでした。
ネコは見てる分には可愛いし、ネコ飼ってみたいなぁなんて、家族と話してて、息子なんかは「僕は、ロシアンブルーがいいな!」なんて言ってたけど・・・
近所の方は「あそこのおうちも、ネコを飼っていて、日中はお仕事で家に誰もいないから、ちょっとドアを開けておいてねこが ここらへんをうろちょろしているのよ。」とちょっと嫌そうな顔をしているのを見て、ネコって可愛いってみんな思っているわけではないのだなぁ、と痛感した次第であります。
ネコにもいろいろいますからね。ほんと、ネコの顔っていろんな顔があるし、その分性格も色々。おもしろいんだけどね。
ネコの話で言えば、『ルドルフとイッパイアッテナ』なんかも大好きな児童書。
人間とネコの共存と言うのは、完璧にはいかないものなんだけどね。